天皇ごっこ

出演者

あべあゆみ

舞台女優

1980年東京生まれ。見沢知廉の作品を数多く舞台化している劇団「再生」に所属し、そこで彼を知る。「天皇ごっこ」の公演では、かつて見沢本人を演じたこともあった。「俺が監獄にいた12年、母は一日置きに手紙をよこした。その手紙が積もり積もって段ボール箱に3箱」、「私は天皇である。皇祖皇宗のおんみ霊を体現するスメラミコトだ!私について来い!」といった台詞を繰り返すうち、次第に見沢自身に自己を重ね合わせ、双子の妹を演じるようになっていった。

設楽秀行

高校時代からの親友 全ての行動を共にする。

1960年新潟生まれ。早稲田中学、高校を見沢知廉と共に通い、親交を深めてゆく。ブント戦旗派の高校生組織に見沢を誘ったのは設楽秀行であった。やり場のない怒りと焦燥感は、彼を新左翼の運動へと導いていく。運動を通して、諸々の社会問題が解決されていくものだと希望を抱いていた。三里塚3・26闘争、命を賭けた闘争の場が、彼の人生の中で最も高揚した時であった。すべてを凌駕する熱気がそこにあったが、やがて二人は、新左翼の運動にも失望していく。革命は起きなかったのだ。見沢との友情だけが、変わることなく続き、二人の理屈を越えた強い絆は、見沢亡き今も、設楽秀行氏の中で固く結ばれている。

鈴木邦男

一水会顧問

1943年福島県生まれ。1967年早稲田大学政経学部卒業。現在、一水会顧問。
1969年右派系学生組織「全国学生協議会」(全国学協)の初代委員長に就任。学生運動を通して、当時「全日本学生国防会議」初代委員長であった森田必勝と知り合う。その森田は、三島由紀夫が結成した「楯の会」に入り、市ヶ谷の自衛隊東部方面総監部で三島と共に自決する。学生運動から離れ、社会人として怠惰な生活を送っていた自分を恥じた鈴木氏は、元楯の会会員であった阿部勉氏らと共に、1972年「東京マスコミ研究会」を結成。第一水曜日に勉強会を行っていたことから、この会は戦後の右翼を乗り越える「新右翼・一水会」として発展していく。著書に「夕刻のコペルニクス」、「愛国者の座標軸」、「公安警察の手口」、「愛国者は信用できるか」、「言論の不自由?!」、「愛国の昭和」、「腹腹時計と〈狼〉」、「言論の覚悟」、「遺魂」他、多数。

森垣秀介

民族の意志同盟。中央執行委員長

1957年東京生まれ。早稲田大学政治経済学部卒。「日本学生同盟」(日学同)の上部団体重遠社に参加。民族運動に携わる。その運動は次第に加速し、超国家主義を軸に据えた独自の思想へと展開していった。その依拠するところは、戦後も形を変えて脈々と続く、欧米列強の植民地支配からの脱却であり、西欧近代主義の否定、白人帝国主義打倒の新文明闘争である。そして戦後デモクラシー粉砕を掲げ、日本人による日本独自の憲法の制定を標榜する。森垣氏は本作で次のように語る。「近代すら粉砕してしまえ。キリスト教の支配を粉砕しろという価値観。そういうものが見沢氏と相通じた訳です。我々は世界を変革していきたい。今の世界秩序というものを変えなきゃいけない。そのことが国内の維新から世界の維新に繋がるんだ」と。森垣秀介は身体から溢れる肉体の言葉を武器にして、現代に警鐘を鳴らし続けている。

針谷大輔

統一戦線義勇軍議長

1965年神奈川県生まれ。防衛大生になりたかったが、ドロップアウトして横浜で暴走族の総長に。三島由紀夫の自決と夢の中の特攻戦死者との会話が、運動に入るきっかけとなる。19歳で一水会の鈴木邦男、木村三浩両氏に出会い、入会を決める。統一戦線義勇軍は、「反米愛国・抗ソ救国」をスローガンに、アメリカ大使館を襲撃。1985年、神奈川県逗子市池子の米軍住宅建設では反対闘争を展開して、横浜防衛施設局に火炎瓶攻撃、外務省職員を襲撃した。1987年、地上げ問題では、蜷川正大、中台一雄両氏らと共に、土地の狂乱的値上がりを不当とし、住友不動産会長宅を襲撃、占拠した。1996年クリントン米大統領訪日にあたり、武装闘争を計画、短銃を所持していたとして逮捕される。2005年覇権主義・外交政策に抗議して、大阪の中国総領事館を襲撃。民族派陣営としては初の「反米デー」を提唱し、反米闘争を精力的に展開。また「自衛隊解体・国軍創設」をスローガンに、自衛隊工作活動にも力を注ぐなど、従来の右翼の運動とは一線を画す独自の運動を全国規模で展開する。

雨宮処凛

作家

1975年北海道生まれ。10代から20代中盤まで自傷行為が続き、オーバードーズ(薬の大量摂取)も習慣としていた時、見沢知廉に出会い、「生きづらいんだったら革命家になるしかない、お前にはその資格がある」と励ましを受ける。その言葉は、それまで現実に適応出来ず、自己否定と自己嫌悪を繰り返し、心を深く閉ざしていた彼女にとって、青天の霹靂であった。そして左翼、右翼の集会へと連れていかれる中、「民族の意志同盟・突撃隊」に参加する。やがて、日の丸印の鉢巻にセーラー服姿で愛国メッセージをパンクのリズムに乗せて歌う、民族派パンクロックバンド「維新赤誠塾」を結成。
近年は、ニートやひきこもりといった、社会から疎外されはじき飛ばされてあがいている人々や、フリーター、派遣の人々といったプレカリアート(不安定な労働者)の生存権を求める運動に取り組み、取材・執筆を重ねている。著書に「生きさせろ!難民化する若者たち」(日本ジャーナリスト会議賞受賞)、「雨宮処凜のオールニートニッポン」、「プレカリアート」、「雨宮処凜の闘争ダイアリー」他、多数。反貧困ネットワーク副代表。

蜷川正大

二十一世紀書院代表

1951年神奈川県横浜市生まれ。1970年の三島事件に触発されて民族運動に目覚める。勉強会の講師に招いた新右翼の草分け、野村秋介氏に師事し、その門下生となる。現在は、野村氏が設立した出版社、二十一世紀書院の代表として、出版、執筆活動に携わり、言論と直接行動に於いて、独自の論を展開している。
野村秋介氏は、河野一郎邸焼き討ち事件、経団連襲撃事件などの直接行動を起こし、最後は朝日新聞社で壮烈な自決を遂げる。その野村氏の意志を継ぐべく蜷川氏は、住友不動産宅を襲撃、籠城し、「土地の狂乱的値上がりの元凶、貴社会長の辞職を勧告するとともに、住友不動産の悪行を世に問うものである」と訴えた。北方領土問題についても果敢に発言し、独自の論を張る。蜷川氏はかつて野村氏から、「世界を見ろ。世界を見る右翼は少ない。日本から世界を見るのではなく、世界から日本を見ることが大事だ」と教えられる。そのような師の教えを大切な人生の指針としている 。

中島岳志

北海道大学准教授

1975年大阪生まれ。大阪外国語大学(ヒンドゥー語専攻)卒業。京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究科博士課程修了。現在、北海道大学公共政策大学院准教授。
在学中より、現代インドのヒンドゥー・ナショナリズム運動を研究し、多様な民衆の主体を、複合的な運動体として論じることを試みる。やがてその視点は、近現代日本が抱える矛盾へと向けられ、大正後期・1921年に起きたテロリズム、朝日平吾による安田財閥の創始者・安田善次郎刺殺事件の解明へと継承されていく。貧困に苦しむ下層労働者、日常的感受性の荒廃、怨恨、挫折の感情と葛藤……。何故に本来平等に幸福を享受すべき人間の間に、歴然たる差別があるのか。専門とする日本政治思想史を単なる机上の学問として論じるのではなく、生きたものとして、日本近現代の底辺で喘ぎ、叫びを発している弱者の視点にたって、発言を続けている。
著書に「中村屋のボース」(大佛次郎論壇賞、アジア太平洋大賞を受賞)、「パール判事」、「ヒンドゥー・ナショナリズム」、「朝日平吾の鬱屈」、「中島岳志的アジア対談」、「秋葉原事件」、「ガンディーからの<問い>」他、多数。

高橋京子

見沢知廉の母

1932年満州大連生まれ。見沢知廉の母。高橋京子は、殺人罪による懲役12年という長期刑に服した息子を支え、励まし続けた。それは世間一般の常識をはるかに超える、母の姿だった。息子が獄中で書いた0.5ミリぐらいの細かな字で書かれた悪筆の小説原稿を、遠視と乱視の眼鏡を重ね、さらに天眼鏡を使って、仕事で疲れ切った体に鞭打ち、一字一句清書していく。まさに母と息子の二人三脚の奮闘記。苦労はやがて、出所間際の1994年「天皇ごっこ」の新日本文学賞の受賞で報われる。出所後、こんなことがあった。母が見沢の部屋に掃除に行き、片付けをしながら呟く。「あなたが作家として成功してくれれば、私は野垂れ死にしてもいいの。」この言葉に見沢は号泣したという。その後、二人は抱き合って泣いたという。見沢が亡くなる数日前、一日に何度も電話をかけてきた。「お母さん、ありがとう、ごめんね。」その言葉だけを繰り返していたという。

※参考文献:宮崎学著「右翼の言い分」(2007 アスコム)※文責:大浦信行