作品に寄せられたコメント
なぜ、人は死ぬまでの時間を生きているのか、なぜ、表現するのか、なぜ、息苦しいのか。そんな問いを、見沢知廉を語る人たちとともに、自らに問いかける2時間だ。確かにこの世は生きづらい。だから変えていけるのかも知れない。
大池監督、それにしても、しつこいよ。そのしつこさには脱帽する。
ど真ん中で生きると、生きづらくなるのはなぜなんだ。この作品を見た夜は、一睡もできなかった。
ラディカルであることの救いがたい喜劇性を覚え、救いがたい悲劇性を覚え、そして見沢知廉がうらやましくなる映画である。
彼はひとつの宇宙だった。その内部ではあらゆるものが相反し、矛盾し、融合もできず、分離もできず、喘ぎながら出口を求めていた。観終えて思う。その帰結として濃密になりすぎた内面が外側を浸食することは、当然だったのかもしれないと。
影が語り、傘が燃え、赤ん坊が遊ぶのを楽しんでいるうちに、揺らぎの中でいつの間にか見沢の問題と見る側の問題がシンクロしてしまう。これが映像の、ドキュメンタリーの力か。
虚と実が交錯する大浦監督らしい展開のなかで見沢知廉という人物の本質が鮮明に浮かび上がってくる。見沢さんについてはそれなりのことは知っているつもりだったが、この映画で改めて気づかされたことも多かった。
ドキュメンタリーのルーティンでは、対象である人物を撮っていくと、 その人間性へとクローズアップしていくものだ。 しかし大浦監督は人物の思想性だけに拘り続ける。 本映画を一言でいうなら「思想、観念の具象化」だ。
大浦信行は、明治期に始まり大浦も我々も過ごす現代に至る近代天皇制度の時代を、記録と報告というルポルタージュの手法で掘り起こすのではなく、現実を見詰め切り離し結合するという意味でのコラージュを用いて赤裸々に提示する。そこにある多角的な視覚が、徹底的な闇に至りつくことを大浦も我々も知っている。そしてここには映画/美術、抽象/具象、右/左という近代が生み出した分類は存在しない。ただ、「造形」があるだけだ。
この映画は、まだ見たこともない、国造りの神話だと思った。「ごっこ」とは、韓国語で「ノリ(遊び)」。この「ノリ」こそ、天と地を引きよせ、その間に生きる人間のまつりごと(祭祀/政治)を生み出す根源的な力だ。かつて韓国の軍事独裁政権下、ある獄中の作家が、この世そのものが「兵隊ごっこ(ノリ)」だと語り、だが、その「ごっこ」の主体は民衆だと言い切った。日本の「ごっこ」の主体は天皇なのか?天皇の生贄として自ら主体となって舞台に立ち、「ごっこ」を演じたまま逝った見沢。彼にとっての革命とは、まつりごとによって引き裂かれた魂を救おうとする逆説の悲願であるかのようだ。そして大浦監督はその悲願を根源的な力の渦に溶かし込み、もうひとつのこの国の姿、赤く痛い新たな国造りの神話を現出させたのだと思う。